LOGIN冷たい鉄格子が無機質な檻を作り出し、重苦しい空気が肌にまとわりつく。
湿り気を帯びた石壁からは、鼻をつくカビと血の入り混じったような臭いが漂っていた。 底冷えする牢獄の中で、イザベラは膝を抱え、じっと己の内側へと沈み込んでいく。ーーこの世界の情報を整理しなければ。
ーー自分に与えられた力を把握しなければ。 ーー何としてでも、この絶望的な死刑宣告を覆さなければならない。思考を巡らせれば巡らせるほど、脳裏に浮かび上がるのは否応なしに突きつけられる現実。
それは、まるで刃のように鋭く、逃げ場を許さぬ残酷な事実だった。ーーやはり私は、イザベラ・ルードイッヒなのね。
牢獄の冷気に縮こまる身体とは裏腹に、頭の奥が焼けるように熱い。
麗子としての人生が確かにあったはずなのに、今の自分は間違いなくこの異世界の公爵令嬢。 だが、与えられたのは美しい容姿と高貴な身分ではなく、婚約破棄と死刑宣告ーーそして、無実の罪。ふっと力が抜け、思わず肩を落とす。
瞳を伏せ、唇を噛み締めながら、重く沈む溜息がこぼれた。頑張るのよ、麗子!
心の中で叫ぶ。それは炎を灯すような言葉のつもりだったが、その声は霧の中に消え、まるで水底に沈んでいくように、焦燥と虚無感が絡みつき、心の灯は小さく揺らめくばかりだった。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。ぎゅっと両手を握りしめる。
痛みが現実を繋ぎ止める鎖となることを願いながら、深く息を吸い込んだ。ーー私は、私を救わなければならない。
意識を研ぎ澄ませ、記憶の断片を拾い集める。
かつてのイザベラが何を知り、何を手にしていたのか。 それを理解し、活かさなければ、この世界の中で朽ち果てるだけだ。するとーー
まるで霧が晴れるように、脳裏に鮮明な映像が浮かび上がった。
イザベラは”忍び”を使い、あの女、カトリーヌを影から探らせていた。
忍び。
それは、闇の中で生まれ、闇を纏い、闇と共に生きる者。 主に従い、主のために動き、主のためにその刃を振るう存在。小太郎ーー
その名を思い出した瞬間、心の奥で何かが疼いた。
ーーそうだ、あの少年がいた。
三つ年下の、生意気な小僧。
かつては甘えん坊だったはずなのに、いつの間にか妙に達観し、イザベラをからかう余裕すら持つようになった。 けれど、その実態は鋭く研ぎ澄まされた刃。瞳は赤と藍のオッドアイ。
夜の闇を宿したかのような深い紅と、冷たい湖面のごとく澄んだ青。 相反する二色の瞳は、まるで陰陽を抱くように不思議な調和を保ち、見る者を捉えて離さない。すらりと伸びた肢体に、鼻筋の通った端正な顔立ち。
一見すれば、どこにでもいる優雅な貴族の青年にも見えるが、その身体には柔らかくしなやかな動きと、猛禽のような鋭さが宿っていた。名を呼べば、風のように現れる。
時には気配すら感じさせず、月影のように静かに報告に訪れることもあった。 彼の存在は空気のようであり、だが確かにそこにいた。それこそが、彼の本質ーー
ーーまるで彼は、影そのもの。
陽があれば、必ず生まれる影。
闇があれば、より濃くなる影。イザベラの命が続く限り、彼の忠誠もまた絶えることはない。
彼はどこまでも彼女を見守り、
たとえ命じられずとも、 彼女のために動く存在だった。そうーーそれが、小太郎だった。
「小太郎! いるんでしょう?」
かすれた声が牢獄の闇に溶ける。
鉄格子の隙間から外を覗き込みながら、小さく呼びかける。……しかし、返事はない。
返るのは沈黙のみ。
深い夜のように重く、どこまでも静まり返った牢獄の空気。牢内に満ちるのは、静寂と、鼻を突くような鉄錆びの臭い。
閉ざされた世界に、自分の呼吸音すらやけに大きく響いている。ーーやはり、そう簡単にはいかないわね。
微かな期待が、乾いた土の上で砕け散る陶器のように脆く崩れる。
胸の奥にじんわりと広がる失望を押し殺しながら、深く息を吐いた。 冷えた空気が肺を満たし、重たくのしかかる。もう一度、記憶の奥底に沈み込むように考えを巡らせる。 もし、この牢獄から脱出できたとしてーーその先は? 行くべき場所は一つしかない。 ルードイッヒ公爵家ーー自らの生家。 だが、そこは決して安息の地ではない。 むしろ、今のイザベラにとっては、敵の巣窟に等しい。 唯一、頼れる可能性があるのは父・ジオルグ公爵だけ。 頑固で冷徹な男だが、少なくとも公爵家の名誉を何より重んじる。 無実を証明できれば、見捨てられることはないかもしれない。 しかしーー 公爵家には、彼女の命を脅かす存在がいる。 実母はすでにこの世になく、その座を奪った側妻は、かねてよりイザベラを疎んでいた。 憎しみを隠そうともしない女狐は、自らの娘に公爵家の正統な後継者の座を与えるため、 ありとあらゆる手を使ってイザベラを貶めようとしてきた。 その娘ーー義妹は、まるで母の影のように彼女に倣い、 いつも嫉妬と敵意を滲ませた視線を向けていた。 そして、屋敷に仕える執事やメイドたち。 彼らの忠誠が向くのは、家長である公爵ではなく、その側妻だった。 彼女の一声で、イザベラは簡単に追い詰められる。 助けを求めることは、すなわち死を意味する。 胸の奥に冷たいものが広がっていく。 牢獄の寒さよりも、ずっと鋭く、ずっと深い絶望の刃。 それでもーー ここで終わるつもりはない。 絶対に、生き延びてみせる。 イザベラは震える指をぎゅっと握りしめた。 この世界で生きるために、自分を殺す者を殺さなければならないのならーーそれすら、受け入れる覚悟が必要だった。 だがーー 唯一、側妻にその存在を知られていない者たちがいる。 闇に生きる者たち。 影の中に潜み、密やかに動く者たち。 決して表に立つことのない、闇の刃ーー忍びの一族。 その
牢の中、イザベラの記憶をひたすら探る。 冷たい鉄格子が無機質な檻を作り出し、重苦しい空気が肌にまとわりつく。 湿り気を帯びた石壁からは、鼻をつくカビと血の入り混じったような臭いが漂っていた。 底冷えする牢獄の中で、イザベラは膝を抱え、じっと己の内側へと沈み込んでいく。 ーーこの世界の情報を整理しなければ。 ーー自分に与えられた力を把握しなければ。 ーー何としてでも、この絶望的な死刑宣告を覆さなければならない。 思考を巡らせれば巡らせるほど、脳裏に浮かび上がるのは否応なしに突きつけられる現実。 それは、まるで刃のように鋭く、逃げ場を許さぬ残酷な事実だった。 ーーやはり私は、イザベラ・ルードイッヒなのね。 牢獄の冷気に縮こまる身体とは裏腹に、頭の奥が焼けるように熱い。 麗子としての人生が確かにあったはずなのに、今の自分は間違いなくこの異世界の公爵令嬢。 だが、与えられたのは美しい容姿と高貴な身分ではなく、婚約破棄と死刑宣告ーーそして、無実の罪。 ふっと力が抜け、思わず肩を落とす。 瞳を伏せ、唇を噛み締めながら、重く沈む溜息がこぼれた。 頑張るのよ、麗子! 心の中で叫ぶ。それは炎を灯すような言葉のつもりだったが、その声は霧の中に消え、まるで水底に沈んでいくように、焦燥と虚無感が絡みつき、心の灯は小さく揺らめくばかりだった。 それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。 ぎゅっと両手を握りしめる。 痛みが現実を繋ぎ止める鎖となることを願いながら、深く息を吸い込んだ。 ーー私は、私を救わなければならない。 意識を研ぎ澄ませ、記憶の断片を拾い集める。 かつてのイザベラが何を知り、何を手にしていたのか。 それを理解し、活かさなければ、この世界の中で朽ち果てるだけだ。 するとーー まるで霧が晴れるように、脳裏に鮮明な映像が浮かび上がった。 イザベラは”忍び”を使い、あの女、カトリーヌを影から探らせていた。 忍び。 それは、闇の中で生まれ、闇を纏い、闇と共に生きる者。 主に従い、主のために動き、主のためにその刃を振るう存在。 小太郎ーー その名を思い出した瞬間、心の奥で何かが疼いた。 ーーそうだ、あの少年がいた。 三つ年下の、生意気な小僧。 かつ
人は死に直面すると、生前の記憶がまるで走馬灯のように目の前を駆け巡り、過去の一瞬一瞬が鮮明に浮かび上がると言われている。しかし今、私の脳裏を占めているのは、確かに私の記憶ではない。まるで別人の記憶が無理矢理押し寄せてきているかのようだ。 そう、私は死んだのだ。ほんの少し前、目の前に現れたのは、まるで地獄の番人を彷彿とさせる真っ赤な肌を持ち、ギョロリとした目が不気味に光り、鋭い牙を覗かせる異形の大男――閻魔大王だ。彼は私の生前の悪事を裁き、『無限ギロチンの刑』と冷徹に告げ、深いため息をついた。ため息は、まるで私を極邢の運命に突き落とすように、重く、冷たかった。その瞬間、私の意識は闇に呑み込まれた――地獄に送られるはずだったのに、何故か今、私はここにいる。 私の脳裏で展開する走馬灯の物語は、公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒの幼少期から始まった。柔らかな陽光に包まれて育ち、贅沢な衣装と優雅な食卓に囲まれて――美しく、わがままに、そして少しだけ頑固に育てられた彼女の姿が映し出される。次に訪れるのは、あの王子との婚約の知らせ。王子ヘインズ・クラネルはまさに王子様そのもの、豪華な外見と高貴な血筋を持ちながら、イザベラの心を魅了していった。イザベラは過酷な王妃教育を受けながら未来の良き女王を目指して寸暇を惜しんで努力する。だが、彼女の未来は、あっけなく崩れ去る。王妃教育で時間に余裕のないイザベラにヘインズ王子の不満は高まり、王子は公然と浮気するようになったのだ。そして卒業パーティーで婚約解消を発表する。王子に抗議したイザベラは王子に殴り飛ばされ、仰向けに倒れる……その瞬間で走馬灯は途切れた。 これはイザベラの記憶だ。私はそう理解してイザベラという人間を考察した。 この子、美しいけれど、ちょっと負けん気が強すぎるわね。でも、頑張り屋さんで、素直に言うと、本当は良い子なんだ。王妃教育も真面目に受けていて、時間がない中でも一生懸命やっていた。でも、王子は……あんな公然と浮気をして、挙げ句の果てに婚約を破棄だなんて……。 もしこの子が、黙って耐えていたら――泣き寝入りしていたら、こんなことにはならなかったのに。死ぬこともなかったのに……こんなに騒ぎを大きくしてしまったから、きっとこの後は処刑台に送られる運命だったはず。でも、あの一撃で――もう後頭部を強打して死んじゃったのね